カメラと

カメラと日常の覚書

「なぜそのアジサイを摘んだのか?」電車で見た光景と元植木屋が考えた、花を愛でる本当の意味

👋 はじめに:私を立ち止まらせた、あの光景

あれは、箱根登山鉄道での撮影旅行の帰り道でした。
駅のホームで電車を待っている時、忘れられない光景に出会ったのです。

おばあちゃんが、サランラップで無造作に巻かれたアジサイの枝を3本ほど、大切そうに抱えていました。 見事に咲き誇った花が付いていましたが、その飾らない、ある意味で武骨な扱いは、個人的にとても印象深く、私の心に小さな問いかけを残しました。

アジサイを持つおばあちゃん
アジサイを持つおばあちゃん


▲ 夜の駅で出会った光景。このアジサイは、どこへ向かうのだろうか。

この光景は、私に「強烈な印象」を与え、朝まで頭から離れませんでした。
私は、考えずにはいられなかったのです。
「もしも、あの美しいアジサイが、もし友人や知人の庭から譲り受けたものではなく、どこか公共の場所で摘み取られたものだとしたら? 自然の美しさを、私たちはどうすれば本当に大切にできるのだろうか? それは、たとえ小さな行為でも、自然破壊につながってしまうのではないか。」

もちろん、私自身も知らず知らずのうちに、こうしたマナー違反をしてしまっていることがあるかもしれません。
もし、私のブログ記事や写真を見て「それ、マナー違反だよ」「もっと良い方法があるよ」と気づいた方がいらっしゃいましたら、そっとお声がけいただけると、本当に助かります。

この記事では、あの光景をきっかけに私が深く考えた、「花を愛でる本当の意味」を、元植木屋としての知識も交えながら紐解いていきます。

💡 この写真と記事に込めた「私の思い」

一枚の写真が、時に言葉以上の「真実」を語り、人の心を動かすことがあります。
私にとって、カメラを持つことは、その力を通して「伝える」責任を担うこと。

この記事と、そこに添えられた写真に、私は一つの願いを込めました。
観光地が、地域に暮らす人々も、遠方から訪れる多様な人々も、誰もが「より良い空間」として分かち合える場所であってほしい。
その「空間」を、誰も壊すことなく、共に美しい時間を過ごしてほしい。

「写真は真実を写す」という言説には、特定の思想に利用された歴史があるのも事実です。しかし、批判や中傷を恐れて、写真が持つ「伝える力」を封じるつもりはありません。

🔍 元植木屋が考える「花を摘む」ことの意味

あのおばあちゃんが抱えていたアジサイの枝。
アジサイは、切った枝を土に挿しておくだけで根付く、生命力の強い植物です。だからこそ、庭のアジサイを増やしたり、お知り合いにおすそ分けしたりする楽しみがあります。

しかし、それは「自然に咲いている美しさを大事にし、許可された範囲内でのみ行う」という倫理観に基づかねばなりません。
特に、箱根のような観光地では、アジサイは単なる植物ではありません。多くの観光客を魅了し、地域に活気をもたらす大切な「観光資源」、つまり地域全体の資産です。
もし、ご本人の庭や友人の庭から許可を得て持ってきたものではなく、想像するような無許可の行為だとしたら、それは多くの人の努力で作り上げられた景観という資産を損ねる行為に他なりません。

公園や他人の敷地のアジサイを無断で切ることは、マナー違反であるだけでなく、法律に触れる可能性もあります。美しい花を愛でる気持ちが、誰かを悲しませる行為に繋がらないようにしたいものですね。

🌳 「摘む」と「撮る」:私たちの心に映るもの

強い生命力を持つアジサイと、誘惑に弱い私たち人間。
その対比の中で、私たちはどうあるべきか。

花を「摘む」という行為は、その瞬間、自分だけのものとして閉じ込めることかもしれません。
一方で、花を「撮る」という行為は、その美しさを時間と共に記録し、多くの人々と共有し、未来へと繋ぐことだと私は考えます。
この二つの行為が、私たちの自然に対する姿勢、そして心の豊かさを映し出しているのかもしれません。

🤔 まとめ:写真が問いかける、花を愛でる本当の意味

箱根登山鉄道の旅で出会った忘れられない光景。
この出来事は、私に一つの問いを投げかけました。

「なぜ、その花を愛でるのか。そして、どう愛でるのか。」

自然の美しさを、私たちはどうすれば本当に大切にできるのだろう?
あの写真一枚が私の心を揺さぶったように、写真には、見る人の心に問いを投げかけ、感動を共有する力があります。私自身が感動し、その感動を写真に込められたなら、きっと読者にも伝わるはずだ。

「自然の美しさと、それをどう愛でるか。そこに、私たちの心が映し出されるのかもしれません。」
おばあちゃんの行為を安易に「悪」と断じるのではなく、その方にも事情があったかもしれないと「気持ちに寄り添って」考える。その上で、私たちはどう行動すべきか。

答えは、「採る」のではなく「撮る」という行為を通じて、その美しさを誰も傷つけることなく分かち合い、未来に残していくことではないでしょうか。

私自身、今回の出来事をきっかけに、改めて植物や自然との関わり方について深く考える機会を得ました。
次にアジサイを見かけたら、その花が誰に、どのように大切にされているのかにも、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。きっと、いつもの風景が少し違って見えるはずです。


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