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カメラと日常の覚書

プロジェクト・ヘイル・メアリー ― 「ハッピーエンド」の裏に隠された監獄

本記事にはネタバレ、およびアフィリエイトリンクを含みます。

1. 観終わったあと、なぜか胸が重かった

映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観終わった。

SNSでは感動の声であふれている。ロッキーかわいい、泣けた、最高――自分もそう思う。地球は救われた。主人公グレースはエリド星で子供たちに授業をしている。ロッキーも無事だ。文句のつけようのないハッピーエンドだ。

それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

この引っかかりを解きほぐすために、タイトルの意味から考え直した。原作小説の詳細も調べた(まだ読んでいない。映画の余韻が冷めやらぬうちに書きたかったので)。自分の経歴とも重ねた。

そして辿り着いた結論。これはハッピーエンドではない。少なくとも、単純な「よかったね」で済ませていい話ではない。

この作品が本当に描いているもの――それは「社会というシステムに使い捨てられた人間が、最後に選んだ完全なる逃避行」だ。

2. 「ヘイル・メアリー」という言葉が持つ三つの顔 ― タイトルから読み解く

記事のタイトルにもなっているこの言葉、Geminiに聞いて調べてみると面白いことがわかった。

「ヘイル・メアリー」は背景によって三つの意味を持つ。

一つ目はもちろんアンディ・ウィアーのこの作品。宇宙船の名前だ。

二つ目はアメフト用語。「ヘイル・メアリー・パス」――試合終了間際、絶望的な状況で一か八か放り込むロングパス。成功率は極めて低い。奇跡を祈るような気持ちで投げる。

三つ目は語源。カトリックの「聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)」の英語訳。苦しい時に唱える祈りの言葉だ。

「祈り」がアメフトの「奇跡のパス」に転用され、さらに現代では「絶望からの一か八かの大逆転」という構造のメタファーとして定着した。

この三つの顔を頭に入れてグレースの決断を見ると、ラストの解釈が一段深くなる。グレースがエリド星に残る決断もまた、一つのヘイル・メアリーなのだ。

「帰ればまた使い捨てられる。ならば知らん星で知らん生命と生きていく方がマシだ」――これは確実な幸福への選択ではなく、祈るような気持ちで放った最後の一手だ。

3. グレースはなぜ地球に帰らなかったのか

映画のラスト、グレースは地球に帰る手段を得ながらエリド星に残る。表向きの解釈は「エリド星の子供たちのために教師として貢献する道を選んだ」だ。聖人のような決断、美しい献身。

でも本当にそうか。

小説版ではさらに踏み込んで、グレースは地球を救うデータを送ったあと、自ら地球との通信を絶つ。帰ろうと思えば帰れた。しかし彼は帰らなかった。。。という展開のようだ。

理由は単純だ。

もうあの社会に戻りたくなかったから。

グレースは拉致された。宇宙船に乗せられた。ストラットという国連の高官に麻酔を打たれ、気づいたら宇宙のど真ん中に放り出されていた。彼は志願したわけじゃない。自分を犠牲にして地球を救おうと思ったわけじゃない。ただの臆病な中学理科教師が、「お前が行け」と文字通り担ぎ込まれただけだ。

そして彼は知っている。地球に帰れば何が待っているかを。

英雄として祭り上げられる。メディアに追いかけられる。また別のプロジェクトに担ぎ出される。「世界を救った男」として、死ぬまで使い続けられる。

その気持ち、わかる気がする。

最後までグレースを信じたロッキーのそばが、どれだけ楽か。

4. 「現場ではいいこと言うがそれ限り」の案件たち

ここで自分の話をする。

システムエンジニア、大学病院を担当していた。電子カルテの現場だ。先輩がバタバタ倒れていく。辞めていく。休みが取れない。土日がない。ホテルに帰れない夜が続く。納期は絶対。人が足りないから残るしかない。医療現場に直結しているから止められない。辞めていく先輩の机を片付けながら、自分の順番はいつだろうと考えていた。

これは「いい経験になったね」では済まない。消耗だ。

その後カメラマンとして独立した。GAFAM出身の起業家、ゼネコンの現場写真、着物屋の撮影、いくつもの案件を回した。どの現場でも「素晴らしい」「またお願いします」「めったに出ないアルバムも売れた」と言われる。でも次の案件は来ない。また別のカメラマンに切り替わる。また一から信用を積み上げる。

「現場ではいいこと言うがそれ限り」

この循環を、何度繰り返したか。

グレースが国連に拉致された構造と、フリーランスが案件ごとに使い捨てられる構造は、規模が違うだけで本質は同じだ。「お前の能力が必要だ」と言われて連れて行かれ、役目が終わればさようなら。

5. 「綺麗な監獄」としてのエリド星

エリド星の描写をもう一度よく見てほしい。

視覚を持たない異星人に囲まれ、地球の音楽も雑談も二度とできない。コミュニケーションはロッキーただ一人。それも宇宙服?(ガラス?)越しの限られた時間だけ。または巨大スクリーン?ガラス越し?での授業中の生徒たち。

地球を救った英雄は、宇宙の果てのガラス容器(ドーム)の中で、異星人のために生涯労働を提供している。

これがハッピーエンドか?

物語はこれを美談として描いている。それがこの作品の巧みさだ。

でも、このラストの背後に別の意味を見てしまう人間がいる。

大学病院の激務を知っている人間。フリーランスの使い捨て構造を知っている人間。社会のシステムに少しでも違和感を持ったことのある人間。そういう人たちには、グレースがエリド星に残った決断が「献身」だけには見えないのではないか。

社会からの完全なるドロップアウト。これ以上ない逃避行。それがエリド星だ。

6. それでもこの物語が美しい理由

ここまで書いてきて、この作品を否定していると思われたら困る。自分もこの映画が大好きだ、小説も手にとって読んでみたい。

アンディ・ウィアーが描いたのは、組織に人生を歪められた二人の孤独な存在が、宇宙の果てで出会い、言葉も通じない相手と一つひとつ信頼を積み上げていく話だ。窓越しのダンスシーン――まだ言語を一切理解していない段階で、恐る恐る相手の動きを真似するあのシーンは、近年のSF映画で最も美しい瞬間だと思う。

ロッキーが言う。「君はいいやつだ」

グレースは拉致された。騙された。使い捨てにされた。でもロッキーだけは、最初から最後までグレースを信じた。裏切らなかった。ロッキーにとってグレースは「役目を終えたら捨てる駒」ではなく「自分と同じ心を持つ存在」だ。

だからグレースはエリド星に残った。 地球に「英雄」として飼いならされるより、ロッキーの隣で教師として生きる方が、人間としての尊厳を保てる。そう判断したのだと思う。

7. 結論:この映画は「ハッピーエンド」ではない。「納得のいく逃避」だ

この映画を、ただの「感動の友情物語」で終わらせてほしくない。

グレースの選択の裏にある静かな絶望。社会というシステムに対する諦念。そしてそれでもなお、自分が信じられるたった一つの関係に賭ける決断。そこまで見届けたとき、この作品は「娯楽SF」から「あなた自身の働き方を問いかける映画」へと変貌する。

自分はこれからもフリーランスのカメラマンとして、案件ごとに評価され、使われ、また次の現場を探す。グレースみたいに宇宙の果てに逃げることはできない。

でも、少なくともこの作品を「良い話だったね」で済ませず、グレースの選択を静かに肯定できる観客でありたいと思う。

エリド星のドームで、それでもロッキーの隣で生きることを選んだ一人の男に、乾杯。

全く違う価値観、全く違う環境を持っていても、それでも共に助け合える。成長できる。パートナーと呼べる存在――そんな出会いに、いつか巡り合いたいものだ。