「50%の損失」というジレンマ
かつて私は、機材のスペックさえ上がれば、理想の1枚に近づけると信じていた。
しかし、DxOから届いた「326個の新DxO光学モジュール追加」というメールを前にして、私は歓喜よりも先に、深い溜息をついた。
DxOの解析能力がAdobeを遥かに凌駕している事実は、世界中の実践者が認めるところだ。Adobe Lightroom Classicの補正が「多くのレンズに適合させるための平均値」だとしたら、DxOはレンズ一枚一枚の「癖」をラボで測定し、個別の処方箋を書く。この圧倒的なヌケ感と解像力は、特にマイクロフォーサーズという制約の多いシステムを使う私にとって、本来なら「救世主」であるはずだった。
だが、この恩恵を100%享受しようとすると、私のワークフローには致命的な矛盾が生じる。
聖域を拒む、DNGの壁
私の今のピントは、OM SYSTEMの「JPEG撮って出し」に合っている。カメラから出てくる素直な色彩、または純正現像ソフトであるOM Workspaceが吐き出す、あの湿度を孕んだ空気感。それはAdobe Lightroom Classicの「カメラマッチング」という、表層だけを似せた「塗り絵」では決して辿り着けない領域だ。
理想は、DxO PureRAWで光学的なゴミを完璧に掃除し、その清浄なデータをOM Workspaceに持ち込んで、最高の「色」を乗せることだった。しかし、OM WorkspaceはDxOが吐き出すDNG(線形RAW)という外部の知性を一切受け入れない。
ここで「メリットを半分殺す」という選択肢が浮上する。
DxOの真骨頂は、RAWデータを画像に変える「デモザイク」という一番最初の工程に介入することにある。しかし、OM Workspaceの色を優先するために一度TIFFとして書き出せば、もはやRAW専用のDxO PureRAWは使えない。必然的に、より多機能なDxO PhotoLabを導入し、すでに固まってしまった画像に対して後から補正をかけることになる。これは、一度焼き上がった料理に後から下処理を施すようなもので、本来の解析力の半分は死んでしまうのだ。
脳が求める「効率」と、魂が求める「色彩」
メリットを半分殺し、さらに高価なツールを買い足してまで、不自然な継ぎ接ぎのワークフローを組むべきか。
Adobeの解析には満足できない。かといって、DxOのために「撮って出しの軽快さ」という人生の調律を崩すこともできない。
このジレンマを、私はもはや単なるシステムの不備とは思っていない。自分がどれだけ「純正の色」という不自由な聖域を愛し、守ろうとしているか。その執着を、DxOの最新モジュールという鏡がクッキリと映し出したのだ。
結局、道具がどれだけ進化しても、それが私の「生活のリズム」と噛み合わなければ、それはただのノイズでしかない。
決断:不便な調律を愛でる
私は、DxO PhotoLabを買い足してワークフローを無理に統合する道を選ばなかった。
日常の「ボイスログ」としての撮影は、これまで通りJPEGとAdobe Lightroom Classicでの軽快な調律で完結させる。DxOという特効薬は、今の私のワークフローという健康体には、あまりに劇薬すぎるのだ。
この「不自由な満足」こそが、今の私の現在地である。