カメラと

カメラと日常の覚書

「斜め上」という名の、退屈な45度を棄てる。——40代、15度の乖離に宿る「個」の現像。

斜め上を行く、なんて言葉は、誰かの期待を『正解』の範囲内で裏切るための、ただの記号に過ぎない」

夜の国道16号、19時58分。 OM-D E-M10の小さなボディに、45mm F1.8(換算90mm)という鋭い針を装着して歩く。向こうから、サイバーパンクの残像のようなLEDの光る首輪を引き摺って、一匹の犬がやってくる。

その「光」が網膜に触れた瞬間、私の脳内にある古いOSが、瞬時に「美しい45度」の構図を弾き出した。

夜のモノクロームスナップ。街灯に照らされたアスファルトの白線の上を、自転車に乗った人物が奥へ走り去る背中。中望遠レンズ特有の圧縮効果と、夜の静寂を感じさせる粒子感のある描写。
斜め45度の「正解」から、あと15度だけ踏み込む。その瞬間に、景色は「記録」から「表現」へと現像される。

ふと、走馬灯のように過去が過ぎる。

20代の万能感と、30代の規律。

20代、医療SEとしてキーボードを叩き、画面の向こうに「完璧なバグレス」を求めていた頃の私なら、迷わずそのシャッターを切っていただろう。あの頃の私は、世界を「仕様通り(45度)」に制御できると信じて疑わなかった。徹夜明けのオフィスで見た青白いモニターの光も、納品後に同僚と交わした握手の熱も、すべては規定の角度の中に収まる、美しくも窮屈な「正解」だった。

30代、数ミリの狂いも許されないプレス型の調整に没頭していた頃の私も、その角度を疑わなかったはずだ。組織の中で、規律の中で、誰からも文句の出ない「最も収まりの良い場所」を寸分違わず射抜くこと。それがプロとしての誇りであり、大人になるということの終着点だと信じていた。

だが、40代になった今の私は、その指先を凍らせる。

「45度じゃ、まだ『説明』なんだ。ただの報告書だよ」

斜め60度——誠実であるための「15度の乖離」

被写体に対して斜めに構える。それは「正面(対峙)」でも「真横(傍観)」でもない、一見すると賢明で、誰からも愛される「斜め上」の選択に見える。だが、スナップにおける45度は、あまりに「計算され尽くした」予定調和の匂いがする。かつての私が、必死に守り抜こうとしたあの「仕様書」の匂いだ。

私は、そこからさらに、自分の意志という名の15度を上乗せする。

斜め60度。

この角度まで回り込んだ瞬間、ファインダーの中の世界が不意に重さを持ち、犬の呼吸や夜の湿り気が、後から追いかけてくるような強い納得感となって指先に伝わった。

盗み撮りという「収奪」でもなく、記念写真という「贈与」でもない。被写体の実存に最も肉薄しながら、表現者としての私のエゴが初めて「合意」を得られる、誠実な境界線。

私は、私だけの角度を現像する。

20代の万能感も、30代の規律も、今の私にとっては「45度という退屈」でしかない。

45mmという中望遠レンズは、私にその「15度の踏み込み」というリスクを強いる。 仕様書通りの人生から、15度だけ深層へ。 「知らない自分に会いに行く」ために、私は今夜もまた、理解されない角度でシャッターを切るのだ。

私は、かつて信奉した「45度の正解」を棄て、不器用でも孤独でも、自分だけの「60度の真実」を現像することに決めた。