それは、あまりにも映画的な沈黙だった。
秋葉原駅のガード下。
強烈な逆光がアスファルトを白く飛ばし、視界の境界線を曖昧にする場所に、彼らはいた。
整列しているわけではない。
だが、等間隔に並んだ背中と、それぞれが異なる方向を見据える立ち姿。
それはまるで出撃の合図を待つ戦隊ヒーローか、あるいは黒澤映画の「7人の侍」から一人が欠けたあとのような、奇妙な静着と緊迫感を漂わせていた。
1/200秒が暴く「舞台装置」
手にしていたのは、長年の相棒である Canon PowerShot G5 X(初代)。
最新の機材が叩き出す「完璧な平均点」ではなく、1.0型センサーが逆光に喘ぎながら描き出す、少しノイズ混じりのコントラストを求めてシャッターを切る。
露出補正をマイナスに振り、手前の暗部を「黒い額縁」として活用する。
すると、街の雑踏は「個」の集合であることをやめ、突如として物語の舞台装置へと変容した。
表情が見えないシルエットだからこそ、立ち姿の重心や、わずかに傾いた肩の角度から、この街が持つ「匿名性の熱量」が露わになる。
「一人が足りない」という物語
先日の町田では、馴染みの看板が消えた「空白」を撮った。
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そして今日、秋葉原で見つけたのは「7人目が欠落した」群衆の秩序だ。
偶然が生み出したこの見事な等間隔の配置は、私の中に「物語」を駆動させる。
なぜ彼らはこの瞬間、これほどまでに美しく静止していたのか。
その正解を求めることは重要ではない。
この1/200秒の切り取りが、日常の風景を「物語」の一シーンへと昇華させてしまったという事実だけが、現像されたデータの中に残っていればいい。
自分の決断
効率やスペックを追い求める撮影なら、もっと広角で、もっと鮮明に撮るべきだったのかもしれない。
だが、私はこの「足りなさ」を愛することに決めた。
完璧に整った景色よりも、一人が足りない、あるいは何かが欠落している景色にこそ、私たちの想像力が入り込む余地がある。
私はこれからも、この手に馴染んだ G5 X と共に、都市が時折見せる無意識の秩序と、そこにある「空白」を観測し続ける。